パソコン買った

最近電子機器ばっかり買ってる気がする。まあいいや。

妻が今まで使用していたパソコンは、DELLのVostro200という機種。これは実家から持ってきたパソコンで、Pentium Dual-CoreというCore 2 Duoの廉価版みたいなCPU。メモリは確か増設して。3GBくらいになってたと思う。

このパソコンにWindows10をインストールして使っていたのだけれども、とにかく遅い。何かをするたびにファンがうなりだす始末。

流石にこれでは使い物にならないので、中古でパソコンを探すことに。

中古パソコンの業者はいろいろとあるのだけれども、MARのライセンスを使用していると謳っている業者は意外と少ない。今回は、中古パソコン直販というページで購入することにした。

購入したPCは、NECのMate MK32M/E-Fというマシン。Intel Core i5 3470 3.2 GHzを搭載している。このCPUはIvy Bridge時代のCPUなので、まあ使い物にはなるかなと。

会社でノートパソコンの中古を頼むと、Nehalem世代のCore i3とか持ってこられるので、Ivy Bridgeなら万々歳である。

せっかくCPUがそこそこなので、奮発してメモリを8GB、HDDをSSDに入れ替えるオプションを適用。これでも4万円程なので、パソコンが安く買える時代になったものです。

このくらいの価格で買えるなら、もうPCのジャンクを漁って再生するなんてただの道楽でしか無いな。まあ、それも面白いかもしれないけど。

さて、購入したパソコンを簡単に見てみることにしよう。

箱を開けた状態。キーボードとマウス、本体と電源ケーブル。それにオプションの無線LANアダプタのみというシンプルな内容物(あと、簡単な説明書も)
後ろ側のインターフェイス類。HDMI端子は無い。

まあ、普通の一昔前のビジネスPCって感じのマシン。ただ、SSDとメモリ8GBは強くて、Windows10が一瞬で起動する。すごい。

CPU-Zはこんな感じ

Crystal Markはこんな感じ。この間のiMacの2倍くらいの性能かな。すごいこのPCほしい。

若干オーバースペックな気がするけど、まあいいや。いろいろと使ってもらおう。

DLNAサーバーの構築

最近、PS4だとかタブレットだとかいろいろと電子機器が増えたので、そろそろ家庭内LANにサーバーをたてようと思った。

ディストリビューションは、適当に手元にあったVine Linux 6.5でやることにした。古き良きRedHatみたいなディストリビューションで、Systemdに魂を売ってない数少ないディストリビューションだ。まあ、単に枯れてるだけだけど。

Systemdはたしかに画期的だが、ログをいちいちjournalctlとか言うコマンドで見ないと行けなかったりして、今までのお作法を全部ひっくり返された感じであまり好きではない。まあ、そのうち慣れると思うけど。

そんなわけで、とりあえずDLNAサーバーの構築です。今どきはServiioなるサーバーが出てるらしく、これを使わせてもらうことに。

最小構成が512MBメモリらしく、結構重そうなソフトだ。Raspberry Piとかに入れるのは苦しいかも。

ちなみに、今回インストールするのはnx6320で、CeleronM メモリ3GBなマシンです。多分行ける。

このサーバー、JDK8とFFmpegがいるらしい。FFmpegはVineではパッケージで提供されていないので、セルフビルドする必要がある。と言っても、ほっとけば終わるけど。JDKはオラクルのホームページからダウンロードして、sambaかscpかで。

必要なソフトのインストールが完了したら、落としてきたtar.gzを展開して bin\serviioにある”serviio.sh”を実行する。

その後、http://サーバーのIPアドレス:23423/consoleにアクセスすると、Serviioのコンソールが表示されるので、後は画面にあるとおりに適当に設定する。

いろいろと設定すると、こんな感じでPS4でも再生できる

やっぱりコンピュータがたくさんあると、つなげていろいろと面白いことができるので良い。

iMac mid 2010でWindows10

前にやったとき、うまくいかなくて放置してたけど、今回再度やってみたら。まあ何とかなったというお話。ただし、いろいろとめんどくさい。

ただ、どうやらmacOS Mojaveはとうとうmid 2010を切るみたいだし、そろそろWindowsを動かす準備をしておかないと、ただのデカイ時代遅れOS入のパソコンになってしまう。

そういうわけで、Windows10をインストールすることにした。実は、すでにWindows10のライセンスは持っていて、Macにインストールしてある。

インストール方法の細かい点は忘れたけど、概ね以下の通りだったと思う。

まず、MacでWindowsを使うための王道、BootCampが使えない。なぜかサポート対象外になってる。

次に、搭載しているグラボ、ATI Radeon HD 4670のWindows10ドライバがない。Microsoftから提供されているドライバはあるけど、CCCが使えない。

この問題に対する対応策は、BootCamp使用不可についてはEFIブートで普通にインストール。Radeonについては、提供されているドライバを使用するという方向で対応可能だ。

他の細かいドライバについては、標準のものが使えたり、Windows7時代のドライバを流用したりした気がする。

これで使用可能になるかと思ったのだけれども、決定的な問題が発生した。iMacの内蔵ディスプレイに表示されないのである。その後いろいろと調べてると、Displayportからの出力は出ているようだ。

ネット上を見ていると、Windows7からアップグレードした記事はあるけど、Windows10をクリーンインストールした記事はない。まあ、当たり前か。

iMacで内蔵LCDが映らないと意味がないので、とりあえずグラフィックドライバをMicrosoft標準のものにして運用することにした。若干表示がもたつくような気もしなくはないが、まあ普通に動いている。

と思っていたけれども、しばらく使うと、グラフィックドライバが勝手に更新されてしまう。これに関しては、以下のリンクの方法で対応した。

あと、内蔵のスピーカーが動作しない。これは謎。まあいいや。

最後に、ベンチマークを載せておこう。

CrystalMarkのRankingを見てみると、Markだけのスコアなら、第一世代のCore2Duoのフルスペックくらいの性能になる。しょぼい。

やっぱり、グラフィック性能が引っ張ってるらしい。OGLだけなら、RADEON 7200と大して変わらないくらいのレベルっぽい。2000年のグラボですよ。

ゲームとか動画視聴には全く不向きなので、これをメイン機に使うのは厳しいかな。

まあ、Appleさんから見捨てられるくらい古いマシンなので、これでもう少し延命できたらいいかな。

せめてターゲットディスプレイモードが動けば・・・と思うけど、当時そんな贅沢は言えなかったからなあ。

以上、とりあえず普通に使えるまでの記録でした。

人間の登場

さて、前回は天地創造について少しお話しました。

ところで、今取り上げている創世記ですが、これは伝統的に、イスラエルの指導者モーセが記したとされています。ただ、20世紀に誕生したいわゆる「新神学」とか「自由主義神学」と言われる神学を支持する人は、これを否定する場合があります。

彼らは、創世記は様々な資料を切り貼りしてできたような書物であると主張するのです。

確かに、創世記には一見矛盾する箇所が数々あり、切り貼りしたような気もします。

ただ常識的に考えてそんな「切り貼りした」文章が数千年に渡ってこんな有難がって読まれるわけないし、人に支持されるとも思えません。

その他いろいろと反論する術もありますが、この点において議論してもあまり意味がないと私は思っています。

要は、今読んでいるあなたがどちらかを支持するかです。私は当然、伝統的な福音主義的理解を支持していますし、そちらのほうがよっぽど魅力的だと思っています。

さて、話がズレました。今日は、人間の登場について考えてみます。

聖書では、天地創造の7日間のうち、6日目に人間は創造されたと書かれています。

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」

創世記 1:26

ここに書かれているように、人間は神のかたちに、神にかたどって創られたとあります。神は自ら思考し、自ら判断し決定します。私達も同じように創られたのです。

時々、神はなぜ人間を創ったのか考えることがあります。この正確な答えを見つけることはできませんが、私は「交流する人格を必要とされた」のだと思っています。

私達は、誰も一人では生きていけません。一人でいると寂しいし、不安になります。神が寂しかったかどうかはわかりませんが、私達は少なくとも、神と親しく交流し、神と共に生きることを期待して創造されたのです。

そんな私達ですが、今は神を直接見ることもできませんし、神を神としない人もたくさんいます。この理由については、次回お話することにしましょう。

PS4のシステムソフトウェアについて調べる

5年前なら良いネタになったと思うけど、今やるには本当に今更感しかないネタ。でも調べたので、とりあえず記録しておこう。ちなみに、システムソフトウェアのバージョンは5.50。

IMEはiWnnか

iWnnはオムロンのIME。組込み機器にはよく使用されている。

IMEはiWnnらしい。ただ、PS4を使ってると、ところどころいつもと違うIMEのキーボード画面のようなものが出てくるので、他の技術も使っているのかもしれない。

Sonyといえば、その昔ソニエリが出してたガラケーでは、よくPOBoxというIMEが採用されていたことを思い出す。昔のソニー系列の会社は、メモリースティックとかATRAC3とか、独自技術てんこ盛りで面白かったなあ。

OSはFreeBSD

これは、以前にどこかの記事で読んだ気がする。PS4はx86_64のCPUを採用しているので、FreeBSDを動かしやすい環境だったのだろう。

メモリが8GB載ってるらしいので、動作もほぼ問題ない。

Javaも入ってる

Javaも動いているらしい。Javaの表記はPS4の外箱にもある。ただ、フルのJVMが動いているかどうかはわからない。この自己主張の強さは、さすがオラクルさん。

これでネタ切れ。PS4はPCっぽい構成なので、多分PCゲームを開発するのとそんなに変わらない手法で開発できるのかなと思った。Unityでも使ってるのかな。

以上、小ネタでした。

Raspberry PiでLCDモジュールを制御

結構前に買ったっきり放置してたRaspberry Piを使って、キャラクタLCDに文字を表示したいと思う。要するに、暇なのだ。

LCDモジュール自体は、仕事上嫌になるほど見ているわけだが、こうやって趣味でも対面するというのは、本当に馬鹿なやつだと思う。

さて、気を取り直して本編に入ろう。

使用するLCDモジュール

使用するLCDモジュールは、Raspberry Pi 3 Starter Learning Kitに入ってるLCD。

これですね。実際のモノは

これのようです。

LCDモジュールC面。一般的なLCDモジュールにある端子がある
LCDモジュールS面。LCDモジュールの上に、I2Cモジュールが乗っかってる。

通信方法

通信方法は、I2Cモジュールが乗っかってるので、素直にI2Cでいきましょう。Raspberry PiでI2C通信を行うには、最新のOSなら設定からOnにするだけのようです。

少し古いやつだと、カーネルモジュールをロードしたりして、ゴニョゴニョしないとだめらしい。新しいは正義。

配線

Raspberry PiのGPIOから3.3[V]を拝借するのと、I2C通信をするためのSDA(Serial Data?), SDL(Serial Data cLock?わからん)を、ラズパイとLCDモジュールの間で結線するだけ。

本来、I2Cにはプルアップ抵抗が必要らしいのですが、Raspberry Piはそれも内蔵しているとのこと。

Raspberry Pi、とても便利ですね。ただ、これに慣れると、なんちゃって組込エンジニアが増える気がする

プログラム

接続の確認

プログラムを走らせる前に、まずI2Cデバイスとして認識されているか確認します。

ターミナルを開いて

i2cdetect -y 1

と入力すると、ズラズラっと

コマンドの実行結果

出てくるので、上の例だと「27」とか表示されてたらOKです。SDAとSDLを間違えると、僕みたいに慌てます

接続が確認できたら、次はプログラムです。

ソースコード

オソヨーのサイトに載ってる通り(というか、上で書いたのは全部このページに載ってます)

いざ実行!

ダウンロードしたPythonプログラムを実行したけれども、うんともすんとも言わない。バックライトのオンオフは動くので、I2Cでの通信は出来てるっぽいのだけど。

その後いろいろ調べていると、どうやらこのLCDモジュール、5Vが定格電圧とのこと。I2Cは双方向通信なので、分圧みたいな原始的なレベル変換では対応できない。詰んだ。

セットに入ってたレベル変換基板らしきものを使ってもだめだった。これは片方向なのか、そもそも使い方が悪いのかよくわからない。回路図もないのにわかるわけがない。

ということで、おとなしく秋月電子でレベル変換ICを買うことにした。あと、ついでにハンドテスターも買おう。電圧が全然わからない。

以下は買うものリスト。

天地創造

初めに、神は天地を創造された。

創世記1:1

聖書のはじめは、このような一文で始まっています。この文章からしばらくは、天と地がどのようにして成り立っていったかが書かれています。

近代以降の科学万能主義者は、この天地創造物語は「神話」であるとして、まともに論じる価値の無いものと思っています。実際、学生時代に物理学の先生に天地創造物語についての見解を聞いたところ、まるで無学な人を見るかのような目で見られたのを覚えています。

これに対して、宗教的な人々は、ダーウィンの進化論を徹底的に否定しようとします。その結果、いわゆる危ない人扱いされてしまうことも多々あるようです。

両者の間には、ちょうどラザロと金持ちとの間にあったような深い隔たりがあり、おそらくわかり合うことは無いでしょう。

ここでは、この創世記1:1を、そのような進化論か創造論かの対決を軸に語るのではなく、もっと違う観点から見たいと思います。

ふつう本の冒頭というのは、その書全体を象徴するような書き出しになっています。例えば夏目漱石の「こころ」なら

私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。

夏目漱石 こころ

と書いてあるとおり、物語の中心となっている「私」と「先生」が真っ先に登場しています。

聖書も本であり物語ですから、その冒頭に「初め」に「神」が「天地を創造した」と書かれているということを、ただ聞き流すだけで終わってはなりません。

聖書という書物は、いろいろなことが書かれています。しかし、その色々なことが書かれている目的は、すなわち「神が」何をされたかということを後世に伝えるためだというのが、私の聖書理解の根本にあるものです。

その情報を受け取ってどう処理するかは、私達受け取り側の行動に委ねられています。

今から聖書の物語を紐解いて行きますが、あなたはこれを受け取ったとき、どんな行動に移ろうと思うでしょうか。

PS4購入

前から欲しかった、PS4を購入しました!

すでにPS Vitaは持っているのですが、据え置き型ゲーム機を購入したのはPS2以来、10年ぶり程でしょうか。

この10年間の間に、ゲーム機は非常に進化したようです。まるでPCです。

まあ、PS2の時代から、LinuxをインストールしてPCとして使うという構想

はあったわけですが(これは、当時のSCE久夛良木社長がビッグマウスをぶっ放したから出ただけのものですが)、実際のところ実用的ではなく、出落ち感が否めませんでした。

PS2の話はさておき、とにかくPS4は素晴らしいハードウェアです。たまたまジョーシンで安売りしていたときだったので、2万7000円ほどで買えたのもラッキーでした。

一緒に購入したのは、WRC6というラリーゲーム

このゲーム、なかなか硬派なゲームでありながら、操作性は割と初代グランツーリスモに似ていて、コントローラーでも操作しやすくなっています。

最近のリアルドライビングシミュレーター的なゲームは、どうしても本物の車の挙動を再現するという方向に進みすぎて、レースゲームに慣れていないとまともに走れないというものが多いようにも思います。

そのような状況の中で、このゲームはバランスよくできていて、とても遊んでいて楽しいと思える仕上がりになっています。

PS4はゲームの他にも、動画配信サービスを利用できるのも魅力的です。

とにかく、買って損はないゲーム機だなと思います。

以上、PS4の購入についての記事でした。

PS4の外箱。思ったより小さかった。

聖書とは何か

聖書というと、なんだか古めかしくて、近寄りがたいような気がする方は多いと思います。

その思いを振り切って、やっとの思いで聖書について調べてみても、出てくるのは神学の難しい

共におられるとの約束

今日の聖書箇所:マタイ28:1-10

イントロダクション

今日の個所は、福音書のクライマックスとも言える箇所です。イエスは復活の後、合計10回弟子たちの前に現れましたが、今日の「ガリラヤのイエスが指示された山」で現れたのを最後に昇天され見えなくなりました。つまり、今日の個所は福音書の最後であると同時に、イエスが地上で直接語った最後の言葉でもあります。

注解

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。(16)

弟子たちはようやく、エルサレムからガリラヤへ向かいました。ガリラヤでのイエスとの再会は、今日の個所のほかにヨハネ21章にも記されています。

そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。(17)

「しかし、疑う者もいた」という箇所の解釈は、注解者によって若干異なります。ここでは、時系列・訳文の比較・ほかの個所からの情報の3点を確認し、考えてみましょう。

まず時系列的には、この箇所はトマスが復活を信じた箇所(ヨハネ20:26-29)より後になるので、この「疑う者」がトマスを含む11弟子の誰かだとは考えにくいです。次に訳文の比較ですが、口語訳の訳では、「疑う者」が前節の「十一人の弟子たち」の中に居たようにも解釈することができます。しかしながら、新改訳での「ある者は疑った」という訳を採用するなら、仮にこの場に十一弟子以外の弟子が居たとすれば、その中の誰かが疑ったとも解釈できます。

実際のところ、別の個所である1コリント15:6でパウロは「五百人以上の弟子たちに、同時に現れた」と記しており、ここには十一弟子以外の弟子たちも多数居たことがわかります。イエスがこの山の場所を事前に教えていたので、500人以上の弟子が集まったことは十分考えられます。

以上のことから、この「疑う者」は11弟子の誰かというよりも、山に集まった11弟子以外の弟子の一部と考えるのが妥当です。一度見ただけでは信じられなかったという記述は、逆説的ではありますが、この出来事が真実であったことの補強とも受け取れます。

イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。(18)

ここでの権威とは、「正当な権利や力」のことです。イエスは人間として十字架にかかり、復活することによって人類の罪を贖い、空中の権威者であるサタンを打ち破りました。また、昇天して神の右に座することによって、文字通り、天においても地においてもいっさいの権威を授けられました。

それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 (19)

この箇所は一般的に、「大宣教命令」と呼ばれています。この命令の中で、私たちは「それゆえに」とある点に注目する必要があります。この命令はイエスが授けられた、「いっさいの権威」を前提としており、自力で達成するものではありません。私たちはイエスから与えられる、求めれば求めるだけ得られる無尽蔵の天的な力を用いて、この大宣教命令を実行するのです。

ところで、この命令を日本語訳で読むとすべて動詞のように見えますが、英語訳(例えばNKJV)を読むと、「行って」と「弟子として」のみ動詞で、後は分詞となっていることがわかります。つまり、この命令の中心は「行って弟子とする」ことであると言えるでしょう。

「父と子と聖霊との名によって」とは三位一体を表し、バプテスマを受ける信者も、神との一体化を経験することを示しています。

あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである(20)

「教える」ことの重要性を強調しています。今このようにして詳細に学んでいるということは、無駄なことではありません。

「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」という約束は、非常に勇気づけられるものです。私たちの宣教や教会学校の働きは、孤独なものではなく、いつもイエス様が共にいてくださるという確信のもとに、大胆かつ継続して行っていくものなのです。