10人のツァラアト患者

イエスは福音書の中で、何度かエルサレムへ上っている。その中でも今日の箇所は、エルサレムへ最後の旅に出る場面で、公生涯のかなり後半に位置する。

ATロバートソンの「福音の調和表」では§120とされており、その題名は「サマリヤとガリラヤを経てエルサレムへの最後の旅に出られるイエス」となっている。

聖書箇所は、ルカ17:11-19。

聖書本文


イエスはエルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間を通られた。 12そして、ある村にはいられると、重い皮膚病にかかった十人の人に出会われたが、彼らは遠くの方で立ちとどまり、 13声を張りあげて、「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と言った。 14イエスは彼らをごらんになって、「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と言われた。そして、行く途中で彼らはきよめられた。 15そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、 16イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。 17イエスは彼にむかって言われた、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。 18神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」。 19それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」

口語訳新約聖書 ルカによる福音書 17:11-19

議論あるいは熟考すべき箇所

今日の箇所で、議論すべき、あるいは熟考すべき箇所は

  • 「ツァラアト」もしくは「重い皮膚病」の本来的意味
  • 9人のユダヤ人(あるいはサマリア人以外の誰か)の行方とその後
  • 1人のサマリア人のその後
  • 「あなたの信仰があなたを救ったのだ」の意味

だろう。以下で、それぞれ考えてみよう。

「ツァラアト」もしくは「重い皮膚病」の本来的意味

この箇所で使用されているギリシャ語は「レプラ」であり、このヘブル語訳が「ツァラアト」である。

この言葉は、はじめ日本語に訳されたときには「らい病」と訳出されていた。しかしながら、後になってこの訳出は不適切であるということから、今度は「重い皮膚病」になった。

しかし、更に研究を進めていくと、どうやら「重い皮膚病」と訳出するのも不適切だというので、ここで使用されているギリシャ語の「レプラ」を、ヘブル語に訳した「ツァラアト」をそのまま音だけ日本語にして当てたという次第である。

なぜギリシャ語をそのまま音だけ日本語にして採用しなかったのかは、よくわからない。お偉いさんの有り難い判断があったんだろう。

これらの経緯からわかるように、この言葉は実際のところ、特定の訳語を当てるのは難しいらしい。レビ記13-14章を読む限り、なにか複合的な意味を持つ言葉だったということくらいしか分からない。

「ツァラアト」が何を指すかは非常に興味深いが、ひとまずこのへんで切り上げよう。

聖書本文を理解する上で重要なことは、とにかく「ツァラアト」に罹患してしまうと、儀式的に汚れて共同体に居れなくなるということである。

これを解決するには、治ってから祭司のところに見せに行って、その後生贄を捧げる必要がある。共同体からの隔離は、ユダヤ人にとってはかなり辛い出来事である。

9人のユダヤ人(あるいはサマリア人以外の誰か)の行方とその後

ツァラアト患者は10人であったが、その10人はイエスの言葉を信じて、祭司のところに見せに行く途中に癒やされた。

9人はそのまま引き返さず、おそらく祭司のところに見せに行ったのだろう。彼らは帰ってこなかった。

彼らは信仰によって癒やされたが、果たして救われたのかどうかという点は、非常に興味深いテーマではある。しかしながら、聖書が沈黙している事は詮索しないほうが良い。

彼らはいろいろな理由でイエスのもとに戻らなかったが、あの十字架と復活のメッセージを聞いて信じたかもしれないし、馬鹿なやつだと一蹴したかもしれない。真相は神のみぞ知るということだ。

こういう箇所を、原理主義的に「感謝しに帰ってこなかったから、彼らには信仰がなかったんだ」と判断してしまう思考回路なら、教会に来なくなった人を「あの人は信仰がなかったから来なくなったんだ」と言ってしまいかねない。

人には事情という物があるし、自分の価値観や判断結果なんて相対的な物に過ぎない。「分からない」と結論付けることも、時には賢明な判断なのだ。

1人のサマリア人のその後

彼は感謝するために戻ってきた。これは信仰的な行動であり、褒められるべきである。

サマリア人は、ユダヤ人の神殿制度からは除外されて、独自の神殿制度を構築していた。

このサマリア人は、その制度からも隔離されて、二重の意味で疎外感を感じていたかもしれない。彼らのようなはみ出し者のほうが、当時の異端児であるイエスと関わりやすかっただろう。

同じツァラアト患者でも、ユダヤ人とサマリア人とでは、イエスに感謝を伝えに帰ってくる事に対する抵抗感の度合いが異なる。

どちらにせよ、サマリア人の行動は素晴らしいものだった。

「あなたの信仰があなたを救ったのだ」の意味

ここでの「救った」という言葉が、単にツァラアトから救われたのか、それとも永遠の命を得たという意味で「救った」なのかという点については、熟考の価値がある。

注意したいのは、「帰ってきた」という行動は、信仰の結果としての行動であるという点だ。彼は喜んで帰ってきて、神に礼拝するのと同じように、ひれ伏して礼拝した。つまり、イエスを神と信じたのだ。

救われたのはこの信仰によるもので、仮に9人のユダヤ人にも同じ信仰があれば、彼らは救われているのだ。

9人のユダヤ人にも信仰があったなら、当然引き返してくると思うのが自然な論理であるが、そこにはいろいろな理由があったのかもしれない。彼らはロボットではなく、その時代を生きた生の人なのだ。

とにかく、行動だけを見て信仰の有無を決定してしまうのは、危険なのではと思う。

信仰が弱いと言われれば、それまでだが。

まとめ

今日の箇所は、おそらく読む人それぞれによって、細部の理解は若干異なるかもしれない。この箇所は、1人で読むより、いろいろな人の意見を聞きつつ、自分の中で吟味するのが最適な箇所かもしれない。

10人の癒やされた人の反応に注目するよりは、ツァラアトの癒やしがメシアのしるしであった事に注目したほうが、本質を捉えていると言えるかもしれない。

イエスはエルサレムに入る前に、メシアのしるしであるツァラアト患者の癒やしを、一気に10人に対して行ったのだ。

聖書というのは、このように、短い文章から色々なことを考えることができる。非常に興味深い書である。

人間の登場

さて、前回は天地創造について少しお話しました。

ところで、今取り上げている創世記ですが、これは伝統的に、イスラエルの指導者モーセが記したとされています。ただ、20世紀に誕生したいわゆる「新神学」とか「自由主義神学」と言われる神学を支持する人は、これを否定する場合があります。

彼らは、創世記は様々な資料を切り貼りしてできたような書物であると主張するのです。

確かに、創世記には一見矛盾する箇所が数々あり、切り貼りしたような気もします。

ただ常識的に考えてそんな「切り貼りした」文章が数千年に渡ってこんな有難がって読まれるわけないし、人に支持されるとも思えません。

その他いろいろと反論する術もありますが、この点において議論してもあまり意味がないと私は思っています。

要は、今読んでいるあなたがどちらかを支持するかです。私は当然、伝統的な福音主義的理解を支持していますし、そちらのほうがよっぽど魅力的だと思っています。

さて、話がズレました。今日は、人間の登場について考えてみます。

聖書では、天地創造の7日間のうち、6日目に人間は創造されたと書かれています。

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」

創世記 1:26

ここに書かれているように、人間は神のかたちに、神にかたどって創られたとあります。神は自ら思考し、自ら判断し決定します。私達も同じように創られたのです。

時々、神はなぜ人間を創ったのか考えることがあります。この正確な答えを見つけることはできませんが、私は「交流する人格を必要とされた」のだと思っています。

私達は、誰も一人では生きていけません。一人でいると寂しいし、不安になります。神が寂しかったかどうかはわかりませんが、私達は少なくとも、神と親しく交流し、神と共に生きることを期待して創造されたのです。

そんな私達ですが、今は神を直接見ることもできませんし、神を神としない人もたくさんいます。この理由については、次回お話することにしましょう。

天地創造

初めに、神は天地を創造された。

創世記1:1

聖書のはじめは、このような一文で始まっています。この文章からしばらくは、天と地がどのようにして成り立っていったかが書かれています。

近代以降の科学万能主義者は、この天地創造物語は「神話」であるとして、まともに論じる価値の無いものと思っています。実際、学生時代に物理学の先生に天地創造物語についての見解を聞いたところ、まるで無学な人を見るかのような目で見られたのを覚えています。

これに対して、宗教的な人々は、ダーウィンの進化論を徹底的に否定しようとします。その結果、いわゆる危ない人扱いされてしまうことも多々あるようです。

両者の間には、ちょうどラザロと金持ちとの間にあったような深い隔たりがあり、おそらくわかり合うことは無いでしょう。

ここでは、この創世記1:1を、そのような進化論か創造論かの対決を軸に語るのではなく、もっと違う観点から見たいと思います。

ふつう本の冒頭というのは、その書全体を象徴するような書き出しになっています。例えば夏目漱石の「こころ」なら

私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。

夏目漱石 こころ

と書いてあるとおり、物語の中心となっている「私」と「先生」が真っ先に登場しています。

聖書も本であり物語ですから、その冒頭に「初め」に「神」が「天地を創造した」と書かれているということを、ただ聞き流すだけで終わってはなりません。

聖書という書物は、いろいろなことが書かれています。しかし、その色々なことが書かれている目的は、すなわち「神が」何をされたかということを後世に伝えるためだというのが、私の聖書理解の根本にあるものです。

その情報を受け取ってどう処理するかは、私達受け取り側の行動に委ねられています。

今から聖書の物語を紐解いて行きますが、あなたはこれを受け取ったとき、どんな行動に移ろうと思うでしょうか。

聖書とは何か

聖書というと、なんだか古めかしくて、近寄りがたいような気がする方は多いと思います。

その思いを振り切って、やっとの思いで聖書について調べてみても、出てくるのは神学の難しい