人間の登場

さて、前回は天地創造について少しお話しました。

ところで、今取り上げている創世記ですが、これは伝統的に、イスラエルの指導者モーセが記したとされています。ただ、20世紀に誕生したいわゆる「新神学」とか「自由主義神学」と言われる神学を支持する人は、これを否定する場合があります。

彼らは、創世記は様々な資料を切り貼りしてできたような書物であると主張するのです。

確かに、創世記には一見矛盾する箇所が数々あり、切り貼りしたような気もします。

ただ常識的に考えてそんな「切り貼りした」文章が数千年に渡ってこんな有難がって読まれるわけないし、人に支持されるとも思えません。

その他いろいろと反論する術もありますが、この点において議論してもあまり意味がないと私は思っています。

要は、今読んでいるあなたがどちらかを支持するかです。私は当然、伝統的な福音主義的理解を支持していますし、そちらのほうがよっぽど魅力的だと思っています。

さて、話がズレました。今日は、人間の登場について考えてみます。

聖書では、天地創造の7日間のうち、6日目に人間は創造されたと書かれています。

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」

創世記 1:26

ここに書かれているように、人間は神のかたちに、神にかたどって創られたとあります。神は自ら思考し、自ら判断し決定します。私達も同じように創られたのです。

時々、神はなぜ人間を創ったのか考えることがあります。この正確な答えを見つけることはできませんが、私は「交流する人格を必要とされた」のだと思っています。

私達は、誰も一人では生きていけません。一人でいると寂しいし、不安になります。神が寂しかったかどうかはわかりませんが、私達は少なくとも、神と親しく交流し、神と共に生きることを期待して創造されたのです。

そんな私達ですが、今は神を直接見ることもできませんし、神を神としない人もたくさんいます。この理由については、次回お話することにしましょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です