天地創造

初めに、神は天地を創造された。

創世記1:1

聖書のはじめは、このような一文で始まっています。この文章からしばらくは、天と地がどのようにして成り立っていったかが書かれています。

近代以降の科学万能主義者は、この天地創造物語は「神話」であるとして、まともに論じる価値の無いものと思っています。実際、学生時代に物理学の先生に天地創造物語についての見解を聞いたところ、まるで無学な人を見るかのような目で見られたのを覚えています。

これに対して、宗教的な人々は、ダーウィンの進化論を徹底的に否定しようとします。その結果、いわゆる危ない人扱いされてしまうことも多々あるようです。

両者の間には、ちょうどラザロと金持ちとの間にあったような深い隔たりがあり、おそらくわかり合うことは無いでしょう。

ここでは、この創世記1:1を、そのような進化論か創造論かの対決を軸に語るのではなく、もっと違う観点から見たいと思います。

ふつう本の冒頭というのは、その書全体を象徴するような書き出しになっています。例えば夏目漱石の「こころ」なら

私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。

夏目漱石 こころ

と書いてあるとおり、物語の中心となっている「私」と「先生」が真っ先に登場しています。

聖書も本であり物語ですから、その冒頭に「初め」に「神」が「天地を創造した」と書かれているということを、ただ聞き流すだけで終わってはなりません。

聖書という書物は、いろいろなことが書かれています。しかし、その色々なことが書かれている目的は、すなわち「神が」何をされたかということを後世に伝えるためだというのが、私の聖書理解の根本にあるものです。

その情報を受け取ってどう処理するかは、私達受け取り側の行動に委ねられています。

今から聖書の物語を紐解いて行きますが、あなたはこれを受け取ったとき、どんな行動に移ろうと思うでしょうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です