共におられるとの約束

今日の聖書箇所:マタイ28:1-10

イントロダクション

今日の個所は、福音書のクライマックスとも言える箇所です。イエスは復活の後、合計10回弟子たちの前に現れましたが、今日の「ガリラヤのイエスが指示された山」で現れたのを最後に昇天され見えなくなりました。つまり、今日の個所は福音書の最後であると同時に、イエスが地上で直接語った最後の言葉でもあります。

注解

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。(16)

弟子たちはようやく、エルサレムからガリラヤへ向かいました。ガリラヤでのイエスとの再会は、今日の個所のほかにヨハネ21章にも記されています。

そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。(17)

「しかし、疑う者もいた」という箇所の解釈は、注解者によって若干異なります。ここでは、時系列・訳文の比較・ほかの個所からの情報の3点を確認し、考えてみましょう。

まず時系列的には、この箇所はトマスが復活を信じた箇所(ヨハネ20:26-29)より後になるので、この「疑う者」がトマスを含む11弟子の誰かだとは考えにくいです。次に訳文の比較ですが、口語訳の訳では、「疑う者」が前節の「十一人の弟子たち」の中に居たようにも解釈することができます。しかしながら、新改訳での「ある者は疑った」という訳を採用するなら、仮にこの場に十一弟子以外の弟子が居たとすれば、その中の誰かが疑ったとも解釈できます。

実際のところ、別の個所である1コリント15:6でパウロは「五百人以上の弟子たちに、同時に現れた」と記しており、ここには十一弟子以外の弟子たちも多数居たことがわかります。イエスがこの山の場所を事前に教えていたので、500人以上の弟子が集まったことは十分考えられます。

以上のことから、この「疑う者」は11弟子の誰かというよりも、山に集まった11弟子以外の弟子の一部と考えるのが妥当です。一度見ただけでは信じられなかったという記述は、逆説的ではありますが、この出来事が真実であったことの補強とも受け取れます。

イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。(18)

ここでの権威とは、「正当な権利や力」のことです。イエスは人間として十字架にかかり、復活することによって人類の罪を贖い、空中の権威者であるサタンを打ち破りました。また、昇天して神の右に座することによって、文字通り、天においても地においてもいっさいの権威を授けられました。

それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 (19)

この箇所は一般的に、「大宣教命令」と呼ばれています。この命令の中で、私たちは「それゆえに」とある点に注目する必要があります。この命令はイエスが授けられた、「いっさいの権威」を前提としており、自力で達成するものではありません。私たちはイエスから与えられる、求めれば求めるだけ得られる無尽蔵の天的な力を用いて、この大宣教命令を実行するのです。

ところで、この命令を日本語訳で読むとすべて動詞のように見えますが、英語訳(例えばNKJV)を読むと、「行って」と「弟子として」のみ動詞で、後は分詞となっていることがわかります。つまり、この命令の中心は「行って弟子とする」ことであると言えるでしょう。

「父と子と聖霊との名によって」とは三位一体を表し、バプテスマを受ける信者も、神との一体化を経験することを示しています。

あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである(20)

「教える」ことの重要性を強調しています。今このようにして詳細に学んでいるということは、無駄なことではありません。

「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」という約束は、非常に勇気づけられるものです。私たちの宣教や教会学校の働きは、孤独なものではなく、いつもイエス様が共にいてくださるという確信のもとに、大胆かつ継続して行っていくものなのです。

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